ベトナム戦争の“Napalm Girl” ②
キム・フックの『あの日』の回想。
「寺院にいれば安全だと思った。ところが爆撃機が飛んできたの――本当に近くに。
爆弾の音が響いたと思ったら、まわり中が火の海になって・・・ 恐怖にかられて、必死で逃げ出したわ。
兄と従兄弟と一緒になり、無我夢中で走り続けた。服は焼けて落ちたわ。」
病院で母親に付き添われる、 
彼女の全身の30%が、ひどく焼け焦げていた。が、奇跡的に顔は無傷だった。
彼女に水筒の水を注いでやったクリス・ウェインは、3日後に病院を訪ねた。看護師に彼女の容態を訊くと、「たぶん明日には亡くなるでしょう」という返事だった。
そこで彼は手を尽くし、キム・フックを別の、火傷治療に強い整形外科病院に移した。
「毎朝8時にお風呂に入れられ、皮膚の死んだ部分が切り取られたの。ひどい痛みに私は泣いて、泣いて・・・ 耐えられなくなると気を失ったわ」



空襲から2ヶ月後のキム・フック。 空襲から5ヵ月後、一時帰宅が許される。 空襲の翌年、自宅に彼女を訪ねたウト。
皮膚移植と外科手術を17回受けたキム・フックは、14ヶ月後にようやく退院を許され帰宅した。
『戦争の恐怖』の写真により有名になった彼女だが、しばらくの間は元の普通の生活に戻ることができた。
ウトを初めとするジャーナリストたちは、 
しかし1975年4月30日にサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結すると、西側のジャーナリストたちは共産主義国となったベトナムを追われた。
ベトナム人だったウトは国を捨てることを決意し、家に戻って写真撮影用の器具を集め、義姉(亡き兄の未亡人)と彼女の10歳になる娘を連れて故郷を後にした。
故郷を捨てられなかった母親は、泣きながら彼等を見送った。
ウトたちはカリフォルニアの難民キャンプに到着し、ウトはひと月以内にAP通信の東京支局に送られた。
二年後にロサンゼルスに戻ったウトはAP通信のカメラマンとして仕事を続け、アメリカの市民権を獲得し、のちに結婚し、二児の父親となった。
自宅に戻ったキム・フックは、しばらくは元の生活に戻ることができた。しかし戦争が終わって国が共産主義になると、生活は厳しくなった。
治療費や鎮痛剤は高額になり、相変わらずひどい頭痛や痛みに襲われていた彼女を苦しめた。
彼女は医者を志し、懸命に勉強し、医学学校に入学する。
が、共産主義の指導者たちが『ナパーム・ガール』の反米プロパガンダとしての価値に気づいたとき、夢は砕かれた。
彼女は学校をやめ、故郷に戻り、外国のジャーナリストに会うよう強要された。ジャーナリストとの面会は監視され、会話はあらかじめ脚本化されていた。
ナパーム弾でひどい火傷を負わされ、戦争の犠牲になり、そして今もなお、別の意味で犠牲にさせられている・・・
笑顔を保って役目を果たしつつ、彼女の体内は怒りで煮えくり返っていた。
「あの空襲で従兄弟や南ベトナム軍の兵士たちと共に死んでいれば良かったと思ったわ」
ある日図書館で、キム・フックは聖書に出会う。彼女は初めて、自分の人生には意味があると信じ始めた。
そして突然、望まなかった名声を彼女にもたらした例の写真は、彼女に機会をもたらした。
西ドイツの『シュテルン』誌の援助で、彼女は1982年に火傷跡の治療のため西ドイツに飛ぶことができた。
またキム・フックの経験に同情したベトナムの大統領は、1986年に、彼女が同じ共産国のキューバで勉学できるよう取り計らってくれた。
故郷で自分に付きまとっていた世話役やレポーターから解放された彼女だったが、しかしキューバでの生活は、自由からは程遠かった。
当時ロサンゼルスでAP通信のカメラマンとして働いていたウトは、1989年にキューバのキム・フックに会いに行った。


しかし二人きりになることはできず、彼女が絶望的に自由を渇望していたことを、彼が知る術はなかった。
学校でキム・フックは、若いベトナム人男性と知り合う。醜い火傷の跡のため、キム・フックは自分を愛する男性が現われることはとうにあきらめていた。
しかし彼は、火傷の跡を気にしないばかりか、それ故に余計に彼女を愛してくれるようだった。
二人は1992年に結婚し、モスクワに新婚旅行に行った。旅行の費用は、韓国人の友人が出してくれた。

キューバに戻る途中、搭乗機が給油のため経由したカナダに、二人は亡命する。キム・フックは、ようやく自由を手に入れた。
彼女はウトに連絡を取り、ニュースを伝えた。ウトは彼女に自分の体験を公表するよう勧めるが、彼女はしばらくは普通に暮らすことを選んだ。
「私には夫と、ようやく手に入れた新しい生活がある。皆と同じように普通の暮しがしたいわ」
トロント郊外に落ち着いた彼女だったが、1995年にメディアに発見され、彼女の写真が『トロント・サン』紙の第一面に掲載された。
「あの写真が有名になればなるほど、私のプライバシーが侵害されるような気がした。でもやがて、いつまでも犠牲者である必要はないことを悟ったの」
例の写真は、平和を促進するのに有効な媒体であること。また自由になった今、自分の体験を自分の言葉でありのままに伝えられることに、彼女は気づいた。
1999年に自叙伝が出版され、ドキュメンタリーが作成され、彼女の体験は、ようやく彼女が願った通りに伝えられた。
《 ベトナム戦争の“Napalm Girl” ③ につづく》

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